ルターとクレッパー

聖歌隊 南山大学スコラ・カントールム 2017年度定期演奏会パンフレットより

(この年の定期演奏会では,ルターの「天のかなたから」に始まりクレッパーの「闇は深まり」で終わる全8曲のドイツ語キャロルが演奏された。)

この1年,今年がマルティン・ルター(Martin Luther,1483-1546年)の宗教改革500年とヨッヘン・クレッパー(Jochen Klepper,1903-1942年)の帰天75年という2つのメモリアル・イヤーであることが頭から離れることはなかった。

特に,かの「塔の体験」においてルターの全身を揺さぶった静かな歓喜と,ガス栓をひねり,ユダヤ人の妻ハンナと彼女の連子の愛娘レナーテを手繰り寄せ,しっかりと抱き合って,十字架を見つめたであろうクレッパーの最期は,何度も思い返された。

片や15世紀から16世紀にかけての宗教家,片や20世紀の作家・詩人ではあるが,ともに激動の時代を生き,壁にぶつかり,悩んだ末,良心に照らし最善と映った道を選び取っていった。ルターに対してもクレッパーに対しても,その生き方に疑義を呈する向きのあることは承知している。だが,キリスト者として証をなし,最後まで自身の人生を全うした大先輩であることには変わりない。

ルターは,キャロル賛美歌「天のかなたから」を子どもらと一緒に歌う家庭用賛美歌としてつくったらしい。ルター家では,第1節の天使の言葉は長男のハンス,のちに次女のマグダレーナが担当し(長女エリザベトは生後8ヶ月で死去している),その他の節も,ルターや妻のカタリーナらが交替で歌ったという。ところが,そのようにして10年ほど歌ってきたところへ,13歳になったマグダレーナが天に召されてしまう。ルターは,娘を思い出して辛くなってしまうこの賛美歌を書き直すことにした。第1節を「天からみ使いの群れが来て」と,天使の飛来を描写する表現に置き換え,本来の謎かけ歌の旋律を新しい詩に再度つけ直した。こうして2つの「天のかなたから」が生まれることになったが,ドイツのプロテスタント教会は今でもそのどちらをも大切に歌い継いでいるという。ルターの人間味と後世の人々のルターへの敬慕をしのばせるエピソードである。*

クレッパーもルターを敬愛するひとりだった。特にルターの賛美歌は,牧師の息子だったクレッパーが幼少の頃から繰り返し歌い,親しみ,諳んじるほどに彼の身に染みついていた。妻子の強制収容所送致が差し迫った1942年12月,クレッパー一家の自死の3日前,彼は日記にルターの有名な賛美歌「われわれの神は堅い砦」の一節「彼らが肉体,財産,名誉,子どもと妻を奪うなら,その通りにさせてください」を引用し,「(自分は)ルターがしたようには神に約束できない」「肉体,財産,名誉,それはよろしい。だが(妻子の連行には耐えられない)」と記している。クレッパーもルター同様,否それ以上に,家族への愛と連帯に生きようとしたことがわかる。**

ルターは「塔の体験」によって「恵みの神」と出会い,この福音を世に証しすべく,新しい道を選んだ。自らはドイツ人でありながらユダヤ人を家族として引き受けたクレッパーの,ナチス政権下での自死という選択も,決して「内的破産から」なされたのではなく,むしろ「愛する者たちとの連帯の行為」だった。

クレッパーの墓地の近くに建てられた記念碑には「神は私たちの心よりも大いなる方である」という『ヨハネの第一の手紙』3章20節の聖句が刻まれているそうである。20節の全文は「なぜなら,たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても,神は私たちの心よりも大いなる方であって,すべてをご存じだからである」となっている。クレッパー自身も,死の2日前の日記に,この聖句を引用したうえで「この言葉は、私たちの死においても,共について来て下さるはずだ」と記している。***

ルターの「天のかなたから」とクレッパーの「闇は深まり」。にぎわいをみせる街中のクリスマスとは本質的に異なる救いの世界を描く彼らの降誕祭聖歌は、今日もなお,迷い,悩み,傷つくわたしたちを慰め,救いの曙に向かって顔を上げよと温かく励ましてくれている。

* 徳善義和『ルターと賛美歌』(日本キリスト教出版局,2017年)171-183頁。
** ヨッヘン・クレッパー著,小塩節・小鎚千代訳『みつばさのかげに-愛と死の日記』(日本基督教団出版局,1977年)287頁。
*** 宮田光雄『いのちの証人たち』(岩波書店,1994年)38-45頁。