多治見修道院のベネさん

南山大学スコラ・カントールム 2016年度定期演奏会パンフレットより

かつて多治見修道院に,みんなから親しみを込めて「ベネさん」と呼ばれていた日本人の老修道士がいらっしゃった。亡くなってもう18年になる。

学生の頃,1年間,週に1度,多治見修道院に行ってベネさんの葡萄畑のお手伝いをしたことがある。初夏に汗を拭いながら,まだ小さな葡萄の房にみんなで袋掛けをし,草取りをして,秋の収穫期には甘酢っぱい実をいくつも頬張ったりした。冬の剪定のとき,まるで涙のように葡萄の枝から滴り落ちる樹液に感動し,もの哀しい気分に浸ったりもした。一日の作業を終える頃虎渓山の方角にゆっくりと落ちていった美しい夕日は,今でもはっきりと思い出すことができる。

私たち学生は週1日をそんな風に呑気に過ごしたものだったが,葡萄畑の管理を任されていたベネさんはそうもいかなかった。足がご不自由だったためスクーターに乗って,敷地内をあちこち回り,不具合を見つけては節くれ立った手で何かしら仕事をしておられた。

「ぅうーん」と喉を鳴らした後「これは良いものです」と笑顔で続けるのがベネさんの口癖だった。英語の教科書に載っている翻訳文のような断定的な言い方が,私は好きだった。修道院で起こるあらゆる事象,葡萄の生育をはじめ,下草を刈る鎌の砥ぎ具合,畑を走るスクーターの調子,昼食にいただくカレーライスまでが,こうしてベネさんによって「良いものです」との評価を得ていた。

ベネさんは大の巨人ファンだった。山田さんという方がベネさんの下で葡萄畑の職員として働いておられたが,この山田さんは中日ファンだった。茶目っ気のある山田さんは,対中日戦で巨人が負けると満面の笑みを浮かべ,わざとベネさんに聞こえるように「ジャイアンツ,負けたよ」と私たちに教えてくれた。すると決まってベネさんが「こら山田,真面目に仕事をしなさい」と叱って私たちの笑いを誘った。山田さんはベネさんが修道院で気安く呼ぶことのできる唯一の人だったらしい。今思えば寅さんの「男はつらいよ」に出てくる御前様と源公のような間柄だった。

あるとき,地元のラジオ局が修道院のワインづくりの取材に訪れた。収録は修道院地下の古い酒蔵で行われたが,機械らしい機械もなかったので,困り果てたディレクターから,私たちは何か機械音を出すように頼まれた。近代的で清潔なワイン工場の雰囲気を演出すべく,私たちは暗がりのなか,めいめい何か音が出そうなものを探した。私は部屋の隅に鉄製の秤を見つけ,目盛についた分銅をカタカタ鳴らした。誰かが醸造中のワイン樽のお腹を叩いていたが,あれは果たしてワインには良かったのだろうか。一方ベネさんも,少し緊張しながら,しかしいつもの笑顔で「ぅうーん,これは良いものです」とインタビュアーに応じていた。

このようにベネさんの善良さは年々葡萄畑に沁みてゆき,そのようにして彼は半生を専らワインづくりに捧げた。今は葡萄畑に隣接する修道院墓地で,先輩同僚方とともに眠っておられる。

いうまでもなくベネさんの「ベネ」は,西方教会の修道制の父といわれる6世紀の偉大な聖人「聖ベネディクト」の「ベネ」である。「ベネディクト」がベネさんの修道名だった。ラテン語で「祝福された人」を意味する。ベネさんにぴったりの修道名だ。思えば彼の口癖の「良いものです」も,まさに「祝福された人,ベネディクト」(直訳は「bene 良いと」「dictus 言われた」)そのものだったベネさんならではの言葉だった。

ベネさんのことを思い出したのは,聖ベネディクトが遺した『戒律』に,「私たちの精神が声と調和するように ut mens nostra concordet voci nostrae」という,祈りの心構えを教える言葉があり,これを私たち聖歌隊も聖歌を歌う際のモットーにしているからである。声に出して唱える祈りも,歌声となって響く聖歌も,そのテキストは聖書を直接引用するか,あるいは聖書にインスピレーションを受けたものが多い。テキストを歌う私たちの「声」が,聖書の福音を福音として響かせるためには,まず私たちの「精神」が,テキストによく照らされていなければならないのではないか。そんなことを考えさせてくれる金言である。

今年の定期演奏会は奇しくも高橋晴美先生の「祝福の歌」で始められる。「祝福の歌」は,多くの無名の「ベネさん」の歌だ。どんなにつらい人生も,最期には神が嘉してくださり,その慈愛のまなざしで照らし,みもとに招いてくださる。多治見修道院のベネさんの生涯を思うとき,私はこのことをいっそう確かに信じることができる。