生身の心——細川ガラシャ夫人に寄せて

オペラ Mulier fortis 勇敢な婦人:細川ガラシャ(1563-1600)の生き様」公演パンフレットより
2023年11月17日(金)旧東京音楽学校奏楽堂

学生時代に三浦綾子の『細川ガラシャ夫人』を読んで感銘を受けて以来,細川ガラシャは私にとって作中の主人公玉子(ガラシャ夫人)のイメージそのものである。このたび本演奏会実行委員会の末席を汚すことになったのを機に,ひさしぶりに小説を読み返してみることにした。

読み始めたところで,この小説のオーディオ版が制作されていることを知り,さっそく読書と並行してAudibleでも聞くことにした。オーディオ版は,著者の後書き「終わりに」も含めて18時間50分という長丁場である。だが,プロの俳優・声優陣による朗読が大変素晴らしく,引き込まれた。まもなく読み終わり,また聞き終えた。学生の頃の読後感がよみがえり胸が熱くなった。と同時に,オーディオ版の読み聞かせの効果もあったのだろうか,三浦文学の描くガラシャ夫人が,私のような者にも近しい存在になっていることに気がついた。

若い頃には理解できないまま読み飛ばしていたか,あるいは置き去りにしていた箇所で,この印象は特に顕著だった。たとえば夫忠興との閨事のさなかにジュスト高山右近の顔を思い浮かべる玉子(ガラシャ夫人),かと思えば幽閉先の味土野でいくつもの和歌に忠興への思慕を込めて「つらし,つらし,つらし」と書き散らす玉子, 帰還後,忠興に側室おりょうと引き合わされるや「おりょうとやら,下がってよろしい」と冷たく言い放った玉子,などである。

「わたしは彼らの肉から石の心を除き,肉の心を与える」——読みながら私は聖書の一節を思い出していた。エゼキエル書11章19節である。キリスト教に心惹かれ,手紙を通して密かに宣教師から信仰を学び,侍女の清原マリアから洗礼を受け,愛読した『こんてむつすむん地』(トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の邦訳書)を侍女らに説いて聞かせていた玉子。小説『細川ガラシャ夫人』でも存分に描かれる,ほとばしるような彼女の篤い信仰の傍に,玉子にもあのような「生身の」心が潜んでいたのか。否,人として避けようのない,荒れ狂う業海と真摯に向き合い,うち克ったからこそ,玉子もまた真に天賦の「生身の心」の持ち主であったと言いうるのではないか。

今宵上演される「Mulier Fortis 勇敢な夫人 細川ガラシャ」には,コンスタンティア(不変),フロル(怒り),クルデリタス(残忍),インクイエス(不安),ポエニテュード(悔悛)といった,さまざまな生身の心のありようが人格化されて登場する。なかでもコンスタンティアは,ガラシャ夫人の信仰の代弁者であり,終始毅然とした態度でフロル(怒り)やクルデリタス(残忍)らと対峙する。そして遂にフロル(怒り)をして「コンスタンティアが勝利者になった。[…]コンスタンティアよ,永遠なれ,あなたに勝利を譲ろう」と言わしめる。生前の細川ガラシャ夫人の生身の心にもきっと立ちはだかったであろう怒り,残忍,不安。彼らに替わり,プレミウム(顕彰)とヴィルツーテス(美徳を示す者たち)が現れる。彼らによってガラシャ夫人の生涯を顕彰するコンスタンティア(不変)の柱が立てられて音楽劇は幕を閉じる。

勇敢な夫人細川ガラシャへの戴冠のしるしであるこのコンスタンティア(不変)は,私たちの生身の心にも強く印象づけられるであろう。