南山大学スコラ・カントールム 2015年度定期演奏会パンフレットより
パレストリーナのミサ曲「キリストの永遠の賜物」を練習しているときのことだった。
ラテン語が現代よりはるかに身近に感ぜられていた時代の作品である。
ひとつひとつのことばにふさわしい作曲技法を選びつつ緻密に組み立てられたこの傑作を前に,わたしたちは大いに苦戦していた。和声法や対位法などの音楽技法を,体験を通して理解することは,合唱音楽の解釈のひとつの大切な側面である。つまり,歌ってみる,合わせてみる,ということである。
と同時に,ある作品のなかでひとつひとつの音楽書法を選ぶきっかけを,作曲家はテキストから得ているという点も見過ごしてはならない。一見すれば日常生活とかけ離れたような詩世界の広がる宗教音楽の場合はなおさらであろう。しかもラテン語である。ヴォカリーズでならなんとなく体験できるというレベルから一歩踏み込んでミサの音楽そのものを理解したい。そうなると,もはやテキストの理解抜きには一歩も先に進まない。
ラテン語の場合,まずは逐語訳から始めることになる。「gloria」は「栄光」を指し,「in」は「~において」,「excelsis」は「いと高きところ(天)」,「Deo」は「神に」という意味,といった具合である。
暫定的にではあれ,ひとつひとつの単語の意味が分かったところで,次にテキストを何度も何度も繰り返し発音しながら,語群の織りなす意味の流れを文章として理解する。わが骨肉を通って心に届くまで。翻訳の助けを借りず,発語され歌われ演奏されたラテン語の響きのそのただなかで意味が分かるようになりたい。音楽がつながらなくなったり流れなくなったりすると,演奏を中断し,単語の意味をひとつひとつ確認する作業から始める。この繰り返しである。
そのときわたしたちは終曲「平和の賛歌」に取り組んでいた。それまでも,「Agnus Dei」は「神の小羊」という意味であり,あたかも神の嘉する無辜の犠牲獣であるかのように祭壇ならぬ十字架に身を横たえ全人類の罪の贖いのために死を甘受したイエス・キリストを指すのであると,壊れたテープレコーダーのように何度も繰り返し説明していた。しかし演奏はなかなか温かみを帯びてこない。ラテン語が意味を伴って響いてこないのである。
練習を中断し、いつものようにテキストの意味の確認から始めることになった。
左端のソプラノさんに「Agnus Dei」ってどういう意味かな?と訊いた。やや沈黙があって「小羊…神の…」と答えがあった。「そうだね。じゃあ神の小羊ってなんのこと?」沈黙が続く。「誰のこと?って訊いた方がよかったかな。お隣の方?」「…」「はい、次?」「…」
そのときである。順番が回ってきた一年生のソプラノさんが小さな声で「イエスさま」と答えた。
「イエスさま。」
たったその一言で,場の空気が変わった。少なくともわたしにはそう思われた。たとえようもなく温かくホッとした雰囲気に包まれたのである。控え目な彼女にしてみれば,教えられた通りに答えたに過ぎないのかもしれない。しかし彼女は,わたしが「イエス」もしくは「イエス・キリスト」のことだと話した内容を,「Agnus Dei」のかくも美しい音楽のなかで,本人さえ気づかないうちに彼女なりに自分のものとしてくださっていた。だから彼女は「イエス」でも「イエス・キリスト」でもなく「イエスさま」と答えたのだ。
むろん彼女はクリスチャンではない。しかし,その一言で,彼女はこの賛歌全体の意味と,「Agnus Dei」に「イエスさま」と呼びかける気持ちがいかに大切かを,わたしたちの心にはっきりと刻んでくださった。十字架も贖罪も神のひとり子の到来も彼の死の意味も,すべては「イエスさま」の一言に集約できる。なぜなら問題はこのお方を「イエスさま」と呼びかけるわたしたちの心にかかっているのだから,と。
それは、わたしたちにとって,言葉の壁を越えることのできた瞬間,ラテン語を日本語で理解することのできた稀有なひとときであった。
それからわたしたちの音楽は,ほんの少しだけ流れるようになった。