南山大学スコラ・カントールム 2012年度定期演奏会パンフレットより
神言神学院から法科大学院棟の脇を通って第一研究棟に向かう途中,法科大学院脇の階段の滑り止めのタイルに一つ欠けのあることに,少し前から気づくようになった。差し迫って危険だというわけではない。でも気にはなる。比較的新しい建物なのに,なぜここのタイルだけ欠けているのだろう。施設課に連絡するべきか。そんなことを考えながら毎日通っているうち,いつのまにか「うん今日もない」と安心感すら覚えるようになっている。
欠けはいたるところにある。今日本が,世界が,欠けに苦しんでいる。大切な家族がいまここにいない悲しみ。友人や旅行客が訪ねて来なくなる辛さ。こうした欠けが報ぜられるたびに胸が痛む。むろんわたしにも欠けがある。なぜあのときやさしい言葉をかけてあげられなかったのだろう?なぜあのように荒んだ自分を見せてしまったのだろう?わたしには愛が欠けている。
しかし,知ってか知らでか,そんなわたしの愛の欠けをいつのまにか埋めてくれる人もいる。わたしが傷つけてしまった彼・彼女に近づき,明るい会話で場を和ませてくれている。そんな姿を見ると,そっと心のなかで手を合わせたくなる。
使徒パウロは第一コリント書のなかで,共同体を人間のからだに譬えて次のように言っている。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず,頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えない」と。
一つの役割を引き受けるということは,同時に,他の役割を欠く存在になる,ということをも意味しよう。パウロはさらに進めて,「他よりも見劣りする部分こそ,からだにとってはかけがえのないものなのだ」とも言っている。
見苦しさは,他の部分がその部分の欠けを思いやり,補おうとするためには,むしろ必要だというのだ。そのように,互いに配慮し合い,補い合っているからこそ,からだ全体は分裂を免れているのだと。「一つの部分が苦しめば,すべての部分がともに苦しみ,一つの部分が尊ばれれば,すべての部分がともに喜ぶ」のだと。
今年も「なんすこ」は多くの欠けを経験した。学生合唱団にとっての最大の試練は練習欠席だ。就職ガイダンスや資格取得関連講義,そして長引く就職活動は,容赦なくクラブ活動に制限を迫ってきている。そのため,全団員の半分にも満たない辛い練習を幾度も経験した。その痛みを分かち合いつつ,欠けを補い合いながら,弱音を吐かず練習に取り組んでくださった。そしてなにより,愛を欠いた傷みにさりげなく寄り添ってくださった。
そんな一つ一つの欠けをともに耐えてくださった団員とともに,今日は,欠けだらけの演奏ではあっても,この一年への感謝の気持ちを精一杯この聖堂に響かせたい。