クリスマスに祝われる3回のミサ

南山大学スコラ・カントールム 2014年度定期演奏会パンフレットより

クリスマス(主の降誕の祭日)には「夜半のミサMissa in nocte」「早朝のミサMissa in aurora」「日中のミサMissa in die」の3回のミサが用意されている。3回のミサの成り立ちはおよそ次の通りである。

クリスマスが祝われるようになった4世紀当初,ローマ教皇は「日中のミサ」のみを聖ペトロ大聖堂で祝っていた。

6世紀頃,これに「夜半のミサ」が加わった。祝われたのはサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂においてである。この聖堂は,聖母マリアを「神の母(テオトコス)」と宣言したエフェソス公会議(431年)を記念して建立された。地下聖堂には,ベツレヘムに倣ってイエスご誕生の洞窟がしつらえられていたという。このため9世紀頃までは「飼い葉桶のマリア Sancta Maria ad Praesepe」とも呼ばれた教会だった。この聖母ゆかりの聖堂で,教皇はエルサレムの習慣に倣って「夜半のミサ」を祝うようになったのだという。

最後に,おそらく同じ6世紀頃,聖アナスタシア聖堂での「早朝のミサ」がこれに加わることになった。聖アナスタシアは東方教会で崇敬の篤い聖人で,その祝日は12月25日だった。一説に,サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂で「夜半のミサ」を祝い終えた教皇が,「日中のミサ」のため聖ペトロ大聖堂に向かう道すがら,当時ローマに駐留していたビザンツ帝国の官僚たちに敬意を表わすために聖アナスタシア聖堂に立ち寄り,これがきっかけとなって「早朝のミサ」の習慣が起こったともいわれている。やがてこのローマの習慣はフランク王国にもたらされて定着し,その後世界に広まって、今日に至るまで守り継がれている。

3つのミサのうち最も有名なのは24日の晩のクリスマス・イヴに祝われる「夜半のミサ」だろう。この「夜半のミサ」では,ルカ福音書から,イエスの誕生の場面と,天使が羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告げる場面とが朗読される。続く25日の「早朝のミサ」では,同じルカ福音書から,天使のお告げを受けた羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い,出かけて行き,飼い葉桶に安らぐ幼な子イエスを見出す場面が朗読されるのである。

ここで,今年の定期演奏会のチラシにも使用された14世紀の写本挿絵をご覧いただきたい(Codex Gisele, fol. 11v より)。

「夜半のミサ」の拝領唱「聖なる輝きのうちに In splendoribus」と,続く「早朝のミサ」の入祭唱「今日わたしたちに光が輝いた Lux fulgebit」の譜面が描かれている。入祭唱の冒頭の文字「L (ux fulgebit)」の見事なイニシアル装飾が目を引く。左にはエッサイ,ダビデ,ソロモンと続く王の系譜が聖母子にまで続いている様子が蔓装飾とともに描かれている。「L」の中では「あなたたちに大きな喜びを告げる annuncio vobis gaudium magnum」と書かれた銘帯を持つ天使と,「ベツレヘムへ行こう transeamus (usque) bethlehem」の銘帯を持つ羊飼いとが互いに顔を見合わせている。

実はこの天使のお告げの言葉「あなたたちに大きな喜びを告げる annuncio vobis gaudium magnum」は「夜半のミサ」の福音朗読からの言葉であり,羊飼いたちの「ベツレヘムへ行こう transeamus (usque) bethlehem」は「早朝のミサ」の福音朗読からの引用である。つまり,「夜半のミサ」と「早朝のミサ」の両者の福音朗読が,天使の呼びかけと,呼びかけに応じる羊飼いのかけ声として,挿絵のなかで響き合う構図になっているのである。

中世以降,クリスマス・ミサの回数「3」に特別な意味を見出す神秘家が出ることになる。

14世紀の神秘家でドミニコ会司祭のヨハネス・タウラーもその1人だった。タウラーによれば,3回のミサは「神の御子の三重の誕生」を祝うためにある。「三重の誕生」とは,まず第1に「永遠の父である神の懐における御子の誕生」,第2に「聖母マリアからの誕生」,そして第3には「神の御ひとり子が魂のうちに日々お生まれになること」である。

タウラーによると,第3の「魂における誕生」は「わたしたちに」「毎日,毎瞬」起こりうるものである。この誕生の実現のため,人は「黙し」「裸になり」「ただ神だけを目指す態度」になって,「すべての木の枝が幹から生じている」ことを肝に銘じ,自分の本質を見極め,自身の存在が神に由来していることを悟るべきである,とタウラーは説く(オイゲン・ルカ,橋本裕明『タウラー全説教集3』より「第5説教」)。

この「魂のうちにお生まれになる神」を,たとえば母の腕(かいな)のうちに安らぐ幼な子の姿に重ねることができるかもしれない。苦労の末やっと生まれたその日から,母は何度も何度もわが子の名を呼び,愛情のこもった言葉をかけ続ける。愛のあることばにわが子を浸らせるために―。そうするうち幼な子は,この世にことばというものがあり,それは自分を肯定し,自分に関わり,自分を養い育ててくれるものだということに,知らず知らずのうちに気づいてゆく。

わたしたちも,すやすやと安らぐこの幼な子のように,「黙し」「裸になる」とき,心の奥底に,自分の存在を肯定し,人生の歩みを前へと促してくれる「声」を聴くことになるのかもしれない。

今宵,わたしたちの拙い歌声で紡がれる降誕のメッセージが,聴いてくださる方々のお心に,かの「愛のあることば」となって響くことを切に願いつつ―。