共に手をとりて 違いを知り

さて,陽が沈んだ頃,さまざまな病で弱っている者を抱えている人々はすべて,彼らを彼(イエス)のもとに連れてきた。すると彼は,彼らの一人一人に両手を置いて,彼らを癒すのであった。(ルカ福音書4:40 新約聖書翻訳委員会訳・改訂新版)

アドヴェントの季節になりました。アドヴェントは「到来(やってくる)」という意味で,イエス・キリストの誕生,この世への到来を待ち望む気持ちをあらわします。

2000年前にすでにお生まれになった方を,わたしたちはどうして毎年毎年待つのでしょうか。すでに来られたはずなのに,待っている。

それは,出会うため,ではないでしょうか。

今週のチャペルテーマでもある「聖書」も,出会いの物語といってよいでしょう。わたしたちは入学式のとき,聖書を1冊ずついただきました。聖書はすでに持っています。それはわたしたちもキリストと出会うためです。以前キリスト教学の授業で,わたしは,自らの学生時代の罪深い経験を告白しつつ「みなさん,いただいた聖書は,いざとなれば,お湯を注いだ後のカップラーメンの蓋にもなりますから,どうぞ捨てないでください」と言って大いに顰蹙を買ったことがあります。

こんなふうですから,大学で神学を学びながら,あまり聖書を読んでこなかったわたしには,この歳になって,こうして週に3回,聖書に出会うことのできる西南のチャペルアワーの時間がとてもありがたいのです。素敵な言葉を耳にすると,研究室に戻ってもう一度聖書を開くようにしています。今日は,わたしが最近チャペルで経験した聖書の言葉との小さな思いがけない出会いについて,お話させてください。

皆さんのなかにも,チャペルアワーのお話を聞きながら,関連する聖書の言葉を思い出したことがある方がいらっしゃると思います。私にとって,先ほど読んでいただいたルカ福音書4章の40節は,その一つでした。

今年の10月21日のチャペルアワーでは,心理学科の I 先生がお話なさいました。小学校3年生になるお子さんが初めて胃腸炎にかかられたときのこと。「痛い痛い,痛いからママさすって」。井上先生は「深呼吸してご覧」と言いながら,手でお腹をさすってあげたそうです。お子さんのおなかが膨らんだり萎んだりするうちに,お子さんの痛い痛いの訴えも収まり,やがて寝てしまった。苦しいとき,どうしてもそのことで心も体もいっぱいになってしまう。深呼吸することで解き放たれ,苦しさが和らぐ,そんなお話でした。

イエスの時代にも「さまざまな病で弱っている者を抱えている人々」がいました。人目につくので,日中はなかなか外に出られないのです。だから彼らは「陽が沈んだ頃」,彼らをイエスのもとに連れてきます。「すると彼は,彼らの一人一人に両手を置いて,彼らを癒すのであった」と書かれています。思いもかけず癒された。

「陽の沈む頃」は,ルカにとって,イエスに出会う時です。エマオに向かう弟子たちも,陽の沈んだ夕刻に,それまでてっきり旅人だと思っていた人が,イエスだったことに気づいたのでした。

今日の聖書箇所では「一人一人に両手を置く」イエスの姿がとても印象的です。「両手」なのです。エマオの弟子たちの前で「パンを裂いた」あの両手です(24:30参照)。復活したイエスが,弟子たちの目の前にあらわれて見せたのは両手・両足でした(24:39)。放蕩息子が帰ってきたとき,お父さんが首を掻き抱いて迎えたのも両手だったことでしょう(15:20参照)。善きサマリア人が,追い剥ぎに襲われた人に近寄って,傷に油とぶどう酒を注いだのも,包帯をして自分のろばに乗せ宿屋に連れて行ったのも,両手だったはずです(10:34)。

両手で,一人一人に向き合う。両手には「片手間」ではない誠実さや力強さのようなものを感じます。自分の持っているもの,時間,存在のすべてを差し出して,自分を待っている一人一人に向き合うイエスの姿が目に浮かびます。放蕩息子や善きサマリア人の例え話も,ひょっとしたら,そんなイエスの日常から生まれたのかもしれません。

実は,同じルカ福音書の4章40節を,わたしはチャペルで賛美歌を歌っているときにも思い出していました。それが,今日お配りいただいた『新生讃美歌』324番「キリストにありて」です。対訳でお示ししている通り,もともとは英語です。この3番の歌詞「ともに手をとりて違いを知り」を歌っているときに,はっと気づいたのです。

手をつなげば,その大きさ,小ささ,硬さや,やわらかさ,ぬくもりが,自分の手とは違うと,わかるものです。実際に手を取り合ってこそ,わかる「違い」です。手をつないだ人との物語は,そこから始まるのでしょう。

一人一人に両手を置いて病を癒しておられたイエスも,きっと同じことを感じていたに違いない。誠実に向き合ってこそ,わかる「違い」。だからルカはわざわざ「彼らの一人一人に両手を置いて」と書いたのではないか,と。

ところが3節の英語を読みますと「信仰に連なる者たちよ,どんな人種であろうと,手を繋ぎなさい」となっていて,日本語とは異なります。「もはや,ユダヤ人もギリシア人もなく,皆,キリスト・イエスにおいて一つ」と言ったパウロのガラテア書の言葉(ガラ3:28)が思い起こされます。しかも,この3節は,イエス自身の言葉として書かれています。これが「ともに手をとりて違いを知り」と訳されたことによって,わたしは,ルカ福音書4章40節の言葉に再び導かれたのでした。小さな,不思議な出会いです。

最後に,お祈りに代えて,学院オルガニストの F 先生にリードオルガンで伴奏をしていただきながら,チャペルクワイアの皆さんとともに賛美したいと思います。どうぞテキストをご覧になりながら,ご一緒に味わいましょう。

賛美:『新生讃美歌』324番「キリストにありて」